昨年末の最後のブログに
たしかこう書きました。
「身体を通して自分に気付く。
これからそれをやっていきたいです」
昨年の12月25日(私の誕生日)に
穂高養生園の福田さんの息子さんに
「トレガー・アプローチ」
なるものを受けたからです。
ただただ静かに身体に触れられて
いるだけ・・・でした。
しかし治療以上の効果がありました。
触れられていると身体を感じるんです。
身体が「あった」って気付くのです。
上手く言葉には出来ないのですが、
(私こんなに焦ってたんだ!!)
って感じかな・・・
それ以来「身体を感じる」ってことに
夢中になってしまったのですね。
(カリスマボディワーカーの
小笠原和葉さんのPBMを受講してる
のもそんな理由からなのです)
そういうわけで、
呼吸と身体を感じる瞑想を
体験しないわけにはいかなかったのです。
それにしてもびっくりしました。
指示通り意識を動かすと
電気に包まれたのです。
(れれれ!なんじゃこりや!)
ヴィパッサナー瞑想というものは
「観察する瞑想」「観察して終わり」
だと勝手に思っていたのですね、私。
そう言えば最初に先生が
「身体は固まりではなく、
素粒子のようなものが
振動していると気付くでしょう」
とおっしゃっていたことを
思い出しました。
波動だ、素粒子だ、たえず振動している
とかなんとかよく聞きますが、
まさかそんなことが起こるとは
本気で思っていなかったのですね。
蚊柱なんていう方もいますね。
夏の日、黒い塊に見えるけど
蚊がぶんぶん集まっているだけ。
出たり入ったりしている、と。
人間の身体もそのようなものかも
しれません。
細胞?いや素粒子がものすごい速さで
生滅しているのかもしれません。
こんなに簡単に観察?体験?できた
ことに驚きました。
しかし、こんなことにはまっては
いけないのです。
この瞑想の肝は、観察です。
しかも「平静」に観察することが
いちばん重要なのです。
どんな不思議な体感にも
つかまっては本末転倒なのです。
修行中、耳に残った言葉「アニッチャ」
これは「無常」という意味のパーリ語です。
常なるものは無い、という意味です。
体の中?には「サンカーラ」という反応
(心の条件づけ)がたまっているそうです。
瞑想で体に意識を向け、感覚を
感じることによってこれが出てくるのです。
それがビリビリしたり電気?感や
心地良さや様々な「体感」なのです。
渇望、つまり「もっともっと欲しい」と
言う欲望、快楽系の体感や
嫌悪「怒り、憎しみ、痛み」などの
不快系の体感など、様々ですが
それを「平静」にただただ観察する
ことがいちばん重要なのです。
アニッチャ、アニッチャ、アニッチャ
無常、無常、無常・・・・・・・・・
「これも変わる」「これも変わる」
「これも移り変わる」「これも過ぎ行く」
この世に「変化」しないものは
何一つありません。
赤ん坊は、いつか年寄りになり、
生まれれば、いつか死にます。
それは絶対の真理、法(ダンマ)なのです。
どんな喜びも
どんな悲しみも
どんな素敵なことも
どんな悲惨なことも
アニッチャ、アニッチャ、アニッチャ。
これも変わる、これも変わる、これも変わる。
渇望を思い求めることもせず、
嫌悪から逃げ回ることもせず、
ジャッジメントせずに、
起こる出来事を観察するだけ。
だってすべては「変化」していくのだから。
しかし、精神論ではないのです。
このただ観察している時、
身体に起こる体感が
サンカーラ(心の条件づけ)が
解放されている証しなのです。
(はぁ~、まるでバーズだ!)
私の場合、アクセスバーズは
あまり体感はないのです。
ところがこの瞑想はすごい体感!
バーズもヴィパッサナー瞑想も
反応システム(観念、決めつけ)が
放出されているという点で似ているなぁ、と。
(続く・・・)