だんだんブログを書くのが億劫に
なってきてしまいました。
素敵な本を読んだからです。
「サレンダー」マイケル・A・シンガー
サレンダーって降参とか降伏とか
あんまり良い意味ではありませんし、
大体、マイケルって何者かというと・・
マイケルは大学院在学中に覚醒体験をし
森の中で暮らし始めました。
と同時に建設会社や全米最大の
医療ソフトウェア会社で、二千人の
従業員のトップに立つCEOでもある人です。
森の中に暮らし続けながら!ですよ。
マイケルは、心理学にも哲学にも
宗教にも全く興味のない学生でした。
ある時、妻(学生結婚)の兄である
成功した弁護士と会話を楽しんでいました。
そして、その会話が途切れた瞬間、
不快感を感じ、次に何を言うべきか
考えていることを発見したのです。
もちろん今までもそのような状況に
なったことはあったのですが、
この時は、その不快な感情から逃れる
ために、言うべきことを探している
自分に気づいたのだそうです。
それまでの人生で初めて、心と感情が
見つめる対象になったのだそうです。
気まずい沈黙を「修正」しようとする
自分自身を見つめていたそうです。
修正しようとする心の活動を静かに眺めて
いる観察者だったそうです。
そしてこの出来事は何もしていなかった
のに起こり、ただそこにいて、頭の中を
通り過ぎていく神経症的思考を見つめて
いるもう一人の自分がいることに
気付いたのだそうです。
まるでニコニコ動画のコメントみたいに
ひっきりなしに湧き出る言葉言葉言葉
そして、それは以前からあったのだが、
深く埋没していて気付かなかったと。
まるで魚が水から出るまで水の中にいる
ことがわからないのに似ていると。
そして、マイケルは頭の中の声の
うるささに嫌気がさし、禅や瞑想に
はまっていくようになるのです。
そして、内的自己探求の道に
進んでいくのですが、瞑想をやめた
途端また個人的な心が復活したそうです。
直感にも似た助けは、やり方が間違って
いるのだろう、と。
頭の活動のほとんどが
「自分の好みを中心に展開」
していることを突き止めたのです。
(いわゆるジャッジメントですね!)
そして、そこから自由になるには、
人生の流れが自分に提示しているものを
あえて受け入れる訓練をしてみようと
決意するのです。
(許容ですね!)
この実験を彼は偉大な実験
「サレンダー・イクスペリメント」
と呼びました。
そのルールはシンプルで
『人生が私の前に何らかの出来事を
もたらしたら、私に自分自身を
超えさせるためにそうしているのだ
と捉える。もし、個人的な自己が
不平を言ったら、あらゆる機会を
利用して、その自己を手放し、人生が
私に提供するものに身を任せる。』
なんてかっこいいんだろう!
これだ!
こうして生きたい!
心からそう思いました。
まるで、逆「引き寄せ」です。
コンサルもプロデュースもしない
目の前にやってきたものを
淡々と受け入れ、行うだけ・・・
かつて、これと同じように生きている
人に会ったことがあります。
ヴィパッサナー瞑想の地橋先生です。
先生は「全託」とおっしゃっていました。
ただただ瞑想だけをして、
将来どうなるかさえも
わからない状況だったそうです。
しかし、長期のタイの瞑想修行から
帰った翌日に朝日カルチャーから
瞑想講師の依頼の電話があったと
おっしゃっていました。
ここまで書いて思い出しました。
夢の中で尋ねられたことがあります。
「命を預けることが出来ますか?」と。
不思議な感覚の夢でした。
私は「YES」以外の答えはないと
いう感じで「はいはいはい」と
答えました。
そうしたら、溶鉱炉のような
どろっとした液体のような中へ
巻き込まれ、身体が溶けてしまい
自分と液体の区別がつかなくなると
いう恐ろしくも不思議な夢でした。
その後、何回か尋ねられる夢を
見ました。私は答えました。
「私を好きにお使い下さい。」
これには交換条件などないのです。
好きに使っていいから
生涯安泰に暮らせるようになどと
そんな条件は一切なしです。
切り刻まれようがどうなろうが
「好きにお使い下さい」なのです。
何故そんな約束をしてしまったのか・・
でも、その大いなるもの(姿は見えない)
を前にして、NOという人はいないでしょう。
そんな感じでした。
さあ、私も偉大なる実験を始めます。
どんな結果になっても厭わない、
人生が私に提供するものに身を任せます。
私は特定の宗教は持っていませんが
こう思うのです。
すべてが神の現れだと。
神が私に与えてくれた贈り物だと。