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月曜日は、ある勉強会でした。
最後にお茶会になるのですが、そこで高齢者の話が出てきました。
ある方が、老人ホームの雰囲気が暗い感じがして、そんなところで最期を迎えるのは、
さびしいなぁ、、、というお話をされました。
認知症の方のことを誤解を恐れずに言えば、、、人生の最後につけが回ってきたのではないか、
ともお話されました。


精神世界では、すべてに偶然はないと言います(私もそう理解しています)。
認知症になる方は、死の恐怖をやわらげるためになるのだという理屈がありますが、
私もそのように考えていました。
つまり「死」に対する恐怖があまりにも強いので、わからないようになるのだということです。
それは、宇宙の計らい、神の恩寵ともいえるのではないかと思っていました。
認知症は、人生の最後につけが回って来たのだ、と言われた方はこういう認識でした。
「人生の中で、自分と向き合って来なかった。そういう人は、シャットアウトしてしまう。
それが、認知症になるのではないかと考えている。」ということでした。
なるほどなぁと思いました。
大好きな日曜美術館で、野見山暁治のことをやっていたのですが、御年93歳!
エッセイストとしても非凡な方ですね。
大体、画家は病により短命か、すごーく長生きかどっちかだなという印象です。
野見山さんは、時には冷静に、時には諦観し、時にはユーモアを持ち、
自分を含む世界を見つめ続けてきました。
この「向き合う」ということが、「向かっている」姿勢が彼をしやっきりさせているのでしょう。
そして、自己と向き合う、周囲と向き合うことを拒絶する姿勢は、「逃げる」という
ことなのでしょう。
これが先の方の、認知症はシャットアウトしてきた「つけ」ということなのかもしれません。
結局、ものごとはバランスを取ります。
この人生で取れなければ、来世か来々世で。
物理の法則みたいに、絶対です。例外はありません。
今現在、病やその他様々なことで、「私はなんてひどい目にあっているんだろう」と
嘆いている方もおられるでしょう(私もその内の一人です)。
でも、良い(と思えること)も、悪い(と思えること)も
大宇宙の視点で見れば、変わりはないのかもしれません。
あっちの極に行っては、今度はこっちの極に揺れ動く、まるで自動運動のように。
その輪廻の世界(苦しみの世界)から、抜け出るには、
不安や恐怖の大元を、目を見開いてじっくり見てやるのです。
被害者意識に陥って、自己憐憫に浸っているのをやめるのです。
病と向き合う、、、自分と向き合う、、、。
これはたいへんなことですね。
でも、これが人生という「学校」で学ぶ最大のことかもしれません。
実を言うと、私も逃げたい気持ちと必死に戦いながら、
時には打ちのめされつつ、学んでいる最中です。
ああ、、、どうかこれがいつの日か、懐かしい思い出話になりますように。

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この記事を書いた人

福井てるこ

20代はプロの舞台俳優として全国を回り、33歳から鍼灸の道に入る。