こんにちは、てるこの部屋です。
つい先日、
イギリス在住のセラピストである
溝口あゆかさんのオンライン講座を
受講しました。
よだれの出るような話の
オンパレードでしたが、
その中でいちばん興味深かったのは
目覚めにはレベルがあるというお話でした。
アジャシャンティの本にあるそうですが
(読んだのに覚えていない~(笑)
・頭の目覚め
・ハートの目覚め
・肚の目覚め
なんだそうです。
レベルとはつまりどこで認識したかに
よるということなのでしょうか。
このお話を伺って
私はいないとかあるだとか(笑)の
問題に終止符が打てるとホッとしました。
君たちのおかげでかえって迷ってしまったよ(笑)
頭のレベルの目覚めだと
「私はいない」になるそうです。
言葉で完全に表すことは不可能ですが
チャレンジしてみますね。
まず身体はある、これ事実ね。
そして
思考もあるし
感情もあるし
感覚もあるし
だから、この自分って
絶対に存在しているよね!という
ふうに自我が思っているのですが
それが自我(マインド)が落ちた時
あれ?自分はいなかった
って気付くやつです。
それを「私はいません」なんて文章や
目覚めのティーチャーなんかが
話しているのを聞くと、これまた自我が
「すご~い」なんて驚嘆したりして
羨ましがったり焦ったりしているわけです。
で、なんとか目覚めたいとまた必死に
努力をし始めるのです。
実は自分とは蚊柱みたいなものだと
私は思っています。
福井てるこ(と呼ばれているもの)は
情報や物質の寄せ集めなのです。
福井てるこになる前は宮本てるこだったし
宮本てるこになる前は生まれたての
赤ちゃんでした。
名前や職業なんてその人の本質では
ありません。決してそのすべてを
現わすことは出来ないのです。
どれだけ情報を集めても
それにはならないのです。
今の自分だと思っている情報の数々
(人間と呼ばれているものである、
女性と呼ばれているものである、職業
年齢、状況などなど)の
そういったものを私は毎朝引っ張ってきて
福井てるこを構築していただけだと気づいた体験があります。
ある朝目覚めた時のことです。
大雑把に言えば自分が誰だか
わからなかったんです。
どうしてだかわからないけれど
そうなってしまったんです。
誰だかというと語弊があります。
人間だか動物だかもわからなくなって
しまったんです。
身体の動きもなく(身体という言葉や
意味もわからず)ただ、何かを引っ張って
来なくてはいけないような気がしました。
その何かとは、今思えば
これは(自分は)何者であるのかと
いう情報のことなんですが、
それがその時はどうしても引っ張って
来れなかったんです。
私は諦めました。
ここに(なんとなくここという感じがする
だけですが、限定されてはいない)
いる感じはする。いやある感じと言った
ほうがいいかもしれない。
何かがあるんだけれども
それがわからない。
自分という概念もない。
とにかく言語というシステムが
あったということも引っ張って
来れないのです。
今あえて説明するならば
広がりというかスペースというか
空間というか、それがあっただけなんです。
福井てるこ(と日頃呼ばれているもの)は
存在していなかったのです。
これが真実だと言うつもりはありません。
ただ体験がリアルだったということを
書いているだけです。
その時、もう一つ感じた(あとになって
言語化出来たのですが)のは
私?が今いる空間以外には事実は
何もないということがわかりました。
その部屋(と呼ばれているもの)の
外側には外の世界(新宿区とか、東京
とか)があると信じていただけだと
わかったのです。
目の前にないものはないと感じたのです。
それは頭の中(と呼ばれているもの)
にしかないという感じがリアルに
ありました。事実は今ここだけだと。
(まぁ、本当に変な話でごめんなさい)
個の自分はいないという気づきは
私は最初から本質そのものだったという
マインドの目覚めというものだそうです。
(あゆかさん曰く、私の本質とは
気づきのスペースなんだそう、やっぱりね)
次にハートのレベルの目覚めです。
これは受容の愛というものだそうです。
スピ界隈では特にこれが
重要視されているように感じます。
「私はすべてだ、すべては私だ。
何も怖くない。すべてが愛しい。」
そんな感覚だそうです。
ハートは言葉の通じない領域です。
言語とはその性質の中に「それとそれ以外
を分ける」という働きを持っています。
例えば、リンゴという言葉は
リンゴという音とリンゴというモノの意味
の二つが合わさったものです。
リンゴという意味の中には
「リンゴ以外のものではないもの」という
意味が自動的に立ち上がってしまうのです。
言語は知的活動をする上でとても
便利なものですが、その質の中に
分離があるのです。なのでどうしても
言葉で本質を掴むことは出来ないのです。
なので、言葉がつかない領域を意識すれば
本質の感じを掴むことが可能になってきます。
これも私の20年以上前の体験ですが、
いわゆる自己啓発セミナーに
参加したことがあります。
とにかく真面目な私は自分を変えようと
恥じもさらけ出し発表しまくり
ブレイクスルーしてしまいました。
あれはまさしくハートの体験でした。
言葉で表現するならば
自分には100%直すところなどなく
完全な存在だとわかったのです。
そしてもちろん他の参加者の人たちも
何も直すところなどないとわかったのです。
すべてが完全だとわかったのです。
それは頭での理解ではなく
ハートで知ったのです。
工事現場から無理やり連れて来られた
ような口の重いおじさんと抱き合い、
初日には絶対近づかないでおこうと
決めていた薬物中毒のような汚い男性と
抱き合い、そのハートからの真実を
思う存分体験しました。
パッカ~~ンというものなんでしょうね。
そのセミナーから3日間、私はやはり
言葉を失いました。
マグカップを見ても、お箸を見ても
その名前が思い出せず、その完璧な
美しさにただ感動し涙を流し続けました。
きっと赤ちゃんがマグカップやお箸を
見たらこうなってしまうのではないかと
思います。よく言われるようにキラキラ
輝いていたわけではないのですが、
とにかく初めて見るような新鮮な驚き!
そしてどれもが実際に胸を打ってくるのです。
そして・・・
花を見ると自分が花になってしまいました。
なぜ花がこんなに美しいのか
その全情報が一気に流れ込んでくるのです。
(もちろん今は内容は忘れてしまいました)
空を見ると自分が空になってしまいました。
素晴らしい体験でしたが、その状態は
3日間ほどでまた普通に戻ってしまいました。
余談ですが、
その時は完全に夫のオーラが見えました。
夫を隠してしまうほどのオレンジ色の
オーラが揺らめいていて、私はまるで
神を見た人のように驚き固まっていたそうです。
さて、最後は肚レベルの目覚めです。
これは100%のサレンダーだそうです。
コントロールを手放すことです。
これは体験したことがないです、私は。
あゆかさんがお話していたことですが、
エックハルト・トールやバイロン・ケイティは
ひどい鬱と自己否定の極限で
ゴキブリが這い回る床で寝てるうちに
くるっと反転してしまったそうです。
これはある意味、陰陽太極図のように
自然なことなのかもしれないと思います。
陰極まれば陽になる陽極まれば陰になる。
法則なんでしょうね。
私はゴキブリやネズミと一緒に寝るほどの
極限までは無理ですけどね~(笑)
しかし、死ぬ時は
どっちみち究極のサレンダー。
誰にでもチャンスが与えられていると
思うと、死は悲しくて残念なだけではない
と思うのは私だけでしょうか?
さて・・・
「私はいるのかいないのか問題」は
スッキリしましたね。
私は上記以外にもいわゆる一瞥と
言われる体験をしてきましたが
あゆかさん曰く「それはゴールではなく
見え始めの始まり」ということです。
幸いなことに?またあんな体験をしたい
という気持ちがなく、捉われることなく
毎日を過ごしています。
私が本当に知りたいのは真実ですから
体験の再現ではないのです。
きっとそのあたりにどっしりと
構えているからかもしれません。
体験するしないに関わらず、
この人生は続きます。
今の私は
もっと気楽に楽しんで生きてみよう
という気持ちでいっぱいです。
私には目覚めの体験よりも
今、生きていることが
神秘そのものだと思えてならないんです。
この体験・体験・体験の嵐が面白くて
たまらないんですYO!