「治療家にはそれぞれ、よりどころとしている流儀というものがある。そして各々の流儀に
応じたやり方で、人生における苦痛や困難にとりくんでいる。しかし、それらのどれひとつを
とっても万能といえるものはない。病気の定義や分類、患者へのかかわり方は、流儀によって
まちまちである。外科医は腫瘍をとり除き、鍼治療師は「気」のバランスを整え、シャーマンは
悪魔をなだめて人の魂に巣くう悪しきものを追い払いカイロプラクターは脊柱の歪みを矯正し
内科医は不足したホルモンを人体に供給し、サイコセラピストは抑圧された感情を発散させ、
そして信仰治療家は患者に大いなる力との結びつきをとり戻させ、意志と信仰の力によって
生きるすべを教える。
しかし、やり方はいろいろであっても、すべての治療家に共通しているものがある。それは
この宇宙をつくりあげているさまざまなものの中で鍵となっているものは何か、何に働きかけ
れば事態を有効に変えられるのかについて、独自の見解をもっているという点である。
既存の医療技術が重要であることはいうまでもない。それは、あらゆる治療活動を支える柱で
ある。しかし、どうしても医学が超えられない限界もある。医学には、それぞれが個性をもって
存在している「人間」を、あるがままに理解し、操作することができない。「人間」をいくつか
のカテゴリーに分類することによって、その複雑さを捨象しなければならない。
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それでは、この「個人性」と医療技術とを有効に結びつけるにはどうしたらいいのだろうか。
どうすれば、観念的な世界の中にとどまっている医学の限界を打ち破ることができるのだろう。
代替療法の実践家たちはなぜ、現代医学からみれば異様とも思えるようなやり方をしながら、
現代医学よりもはるかに深く柔軟に、「個人性」の領域にわけ入ることができるのだろう。
とても言葉で表現したり理解したりできないようなものまでも積極的に治療に利用してしまえる
ような特別な方法が、代替医療にはあるとでも言うのだろうか。そう、おそらくあるのだろうと
私は思う。
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自己に目覚めている治療家は、単に病気を治すだけでなく「人を癒す」ことに関心を払う。
そのような治療家は、身体的な不調を引き起こしている本当の原因をつきとめるための「真実の小道」を知っている。純粋の「癒し」とは、治療家に助けられながら、壊れ傷ついた自己へといたるひとつの旅であり、その目的は、病に伴うあらゆる悲劇をのりこえて深遠なる人間性に出会うことである。だから治療家は、病気が治るかどうかを問題にするのではなく、むしろ患者に病気という状態を充分に体験させることで、患者の胸の奥から聞こえる「真実の声」と現実の患者のありようが完全に一致した状態を見出そうとするのである。
「癒し」の過程は、苦しみを通じて自己の存在の根源と出会うための試練にもひとしい。混沌と
したもの、苦しいものから目をそむけることなく、ただに無心にその苦境を生き切ること、それが
「癒し」なのだ。治療家とは、病気と治療技術と「癒しの人間関係」を材料に、わたしたちの
ほんとうの姿を引き出す機会を作り出している者にすぎない。
「癒し」が必要なのは、病に苦しんでいるときだけではない。「癒し」は、生きることの一部、
すなわち人生に欠かすことのできないものなのだ。」
「癒しのメッセージ」より 「ともに行く旅としての癒し」テッド・カプチャク