東京・杉並・西荻窪の施術室、てるこの部屋です。
宇宙の歴史に比べれば私たちの人生なんてほんの一瞬ですね。この一回きりの人生しかないと思ったらあれもこれもと欲張ってみたり、不安や恐怖にまみれてしまうのも仕方ないのかもしれません。しかし、かのエドガー・ケイシーは「人生は死を超えて連続的である」と言っています。
要するに、おぎゃ~と産まれて死で幕を閉じるように見えますが、人生とは永遠に続く芝居の中のたった一幕だというわけです。ですから、焦ったり気張ったりしなくてもいいんです。他人を利用したり蹴落としたりしてまで富や成功を掴もうなんてしちゃだめです。良いことも悪いこともすべて記録されます。なので、いつか必ずカルマの帳尻が合うようになっていますから。

上の絵をご覧ください。私たちは「音」と「沈黙」から出来ているとOSHOは言っています。音楽は沈黙という背景・スペースの中に音が現れては消え、また現れては消えていきます。この音とはつまり肉体であり、思考であり、感情であり、私たちが通常自分だと思っているものです。それは変化していくもの・一時的なものです。
そして、音の鳴っている空間というか、背景というか、観照意識というか、それが私たちの本当の姿です。これはあまりにも当たり前なので私たちは気付かない(気付けない)のです。これは死にません。生まれもしません。変化しませんし、一時的でもありません。今この瞬間も私たちはずっとそれなのです。

音(表現されているもの)と沈黙(表現を包み込んでいるもの)、これらが私たちなのだとOSHOは言っています。音は苦悩であり、沈黙は解放であると。
この束の間の人生はまさに苦悩の連続です。どんなに頑張ってもいつかは「死」が待っているのですから。しかし、本当はたった一幕が終わっただけ。幕間に楽屋(天国とか霊界とか言われているところ)に戻れば、それまでの人生が夢の中の出来事だったような気になってきます。どん底の苦しみだったと思っていたものがそうでもなかったな…なんて。

でも自動的に永遠に生と死を繰り返すなんてなんかイヤですよね。ケイシー的な解釈は私たちは転生を繰り返し、カルマを解消し、ちょっとずつ神に近づいていっているのだそう。ざっくり言えばだからこそ(悪いことすんなよ、いいことしろよ)ってことです。ケイシーは音の部分に着目しているのです。この部分がカルマの法則の下にあると私は思っています。いきなり観照意識とか真我とか言っても実践は難しいですもんね。
一方、悟り系の考えで言えば、悪人は×で善人は○みたいな考えはナンセンスかもしれません。いい音も悪い音も実はどちらも単なる音であることに違いはありません。そこをどうこうするより、観照している意識(沈黙)を実感しようとしているのが悟り系ですね。
でもまたカルマの法則の話に戻るようですが、出来るだけ良い音・美しい音を出したほうがいいと私は思っています。それは来世どころか今世もより良くしていくから。たとえお芝居であってもこの肉体を持っている限り、出来るだけ心地良い美しい人生を演じたいじゃないですか。

いいも悪いもないんだな、どっちも大差はないんだな、同じことなんだなんて思いながら…でもやっぱり人生が一回きりでも連続的でも出来る限り最善を尽くしていきたいと思っている…。これは私にとって全く矛盾していないんです。私は音であり沈黙でもありますから。今日もこの世界という舞台でどんなカッコいいお芝居を演じようか、どんな美しい音を鳴らそうかとワクワクしています。
